LOGIN直哉のメッセージを、澪は無視した。
開いてしまった時点で、既読はついている。それでも構わなかった。
既読がついたのに返事をしなかったことが、気に食わなかったのだろう。直哉はしつこくメッセージを送ってきた。テーブルの上でスマホが震えるたび、画面がぼんやりと光る。きっと短い文章をいくつも送り、こちらからの返信を促しているに違いない。
澪はもう、開かなかった。
洗い物をして、明日の資料に目を通して、シャワーを浴びた。そのあいだも、スマホは何度か震えた。
湯を止めると、部屋は静かだった。
髪を拭きながら戻ると、通知の数だけが増えていた。直哉はあきらめたらしかった。
知りたくないと言えば、嘘になる。
花音は本当に妊娠していたのか。あの婚約破棄は、なんのためだったのか。
けれど、それを確かめるということは、あのふたりの生活のなかに、もう一度足を踏み入れるということだ。
産院を調べ、日付を突き合わせ、嘘の証
写真を持つ手が震える。足に力が入らず、その場にへたり込みそうだ。 ポストに手をかけ、必死に立っている。 もう放っておいてほしいのに、なぜこれほどまでに自分を痛めつけようとするのだろうか。 喉が締め付けられたように苦しい。呼吸が浅くて、うまく息が吸えない。 澪はぎゅうっと胸元を掴んだ。 ――助けて! そう叫びたくても、声が出ない。 こんなとき、誰にも頼れなくて不安になる。 そうだ、仁に連絡をしよう。 そう考えてスマホを取り出したが、手が震えて画面すら開けられない。 いや、仁に連絡して頼る前に、自分でできることがある。 写真をそっとハンカチに包んで、交番へ向かった。 一歩一歩踏み出すが、膝が震えている。踏ん張っていないと転んでしまいそうだった。 後ろを振り返りたくなる。誰かがついてきているような気がして、何度も足が止まりかけた。 振り返らなかった。振り返ったら、たぶん走って逃げてしまう。 澪は奥歯を強く噛みしめ、まっすぐ前を向いた。首筋に、じわりと汗がにじむ。 それほど遠くない距離なのに、交番に着いたときには息があがっていた。「すみません、相談したいことがあるのですが……」「どうぞ」 警察官に椅子をすすめられ、腰を下ろす。膝がガクガクと震えている。「どうされましたか?」 女性の警察官がにっこりと笑いかけてくれた。それだけで、体の力が抜けた。よほど力んでいたのだろう。肩がガチガチになっていた。大きく息を吸って吐くと、ようやく空気が肺に入ってきたような気がした。「あの……最近嫌がらせを受けていて……」「嫌がらせですね」 警察官がメモを取った。「はい。おそらく同一人物だと思うんですが、頼んでいないデリバリーや荷物が届いたり、この前はポストの郵便物を破られたりしました。それから今日は――」
Onlyé for youの発売まで、あと十日となった。 グロウセオリーのECサイトでカウントダウンが始まり、それに伴って、期待の声がSNSで広がった。 Onlyé for youは、このECサイトでしか購入できない。これだけ発売前から評判がよければ、きっと発売直後の売り上げも好調だろう。サーバーがダウンしないように、システム管理には依頼してある。 販売初日の売り上げを伸ばすため、澪はここ数日、ダーマコードに通い、仁と真壁との打ち合わせを繰り返している。既存顧客も新規顧客も喜ぶものを考えているのだが、なかなかいいアイデアが出てこない。「初回限定で容量を十パーセント増量とかはどうでしょう?」 澪が言うと、仁が首を横に振った。「いい考えだと思うんですが、セミオーダー商品ですから、初回は少量での購入をおすすめしたいです。AI診断も完璧ではありませんから、肌に合うかどうかわかりませんし」「確かにおっしゃるとおりですよね」 澪はペンを置いた。「かといって、ノベルティ、というのはちょっとブランドイメージに合いませんよね」「うちのお客さま、ものが増えるのを喜ばない層ですからね」 真壁が腕を組む。「うーん……。シートパックをプレゼントするのはどうでしょうか?」「肌に合わなかったときに、Onlyéのせいにされます」 仁が即答した。真壁が「ですよねえ」と天井を仰ぐ。 アイデアは出てくるのに、これといったものにたどり着かない。三人とも頭を抱えてしまった。「少し、休憩しましょう」 仁が切り出した。時計を見ると、もう八時だった。昼から打ち合わせを始めて、もう七時間も経っている。時間が過ぎるのが早いのは、集中しているからだ。 澪は、ふうっと息を吐いた。それまでなにも感じなかったのに、急にお腹が減った。「飯でも行きます?」 真壁が伸びをしながら言った。「そうですね、軽く行きましょう。それか
直哉のメッセージを、澪は無視した。 開いてしまった時点で、既読はついている。それでも構わなかった。 既読がついたのに返事をしなかったことが、気に食わなかったのだろう。直哉はしつこくメッセージを送ってきた。テーブルの上でスマホが震えるたび、画面がぼんやりと光る。きっと短い文章をいくつも送り、こちらからの返信を促しているに違いない。 澪はもう、開かなかった。 洗い物をして、明日の資料に目を通して、シャワーを浴びた。そのあいだも、スマホは何度か震えた。 湯を止めると、部屋は静かだった。 髪を拭きながら戻ると、通知の数だけが増えていた。直哉はあきらめたらしかった。 知りたくないと言えば、嘘になる。 花音は本当に妊娠していたのか。あの婚約破棄は、なんのためだったのか。 けれど、それを確かめるということは、あのふたりの生活のなかに、もう一度足を踏み入れるということだ。 産院を調べ、日付を突き合わせ、嘘の証拠を集める。 そうして手に入れた答えを、澪はどうするつもりなのだろう。 直哉に渡すのだ。あの人が、花音を責めるための材料として。 そこまで考えて、腕にぞわりと鳥肌が立った。 澪の手元には、もう、やるべき手続きがある。 発信者情報開示請求の手続き。証拠として保全した怪文書のコピー。会社の法務担当者と弁護士への相談。 憎しみに時間を使わない。手続きに使う。 自分で決めたことを、こんなに早く試されるとは思わなかった。 澪はスマホを手に取り、直哉とのトーク画面を開いた。 返信欄には触れない。代わりに、画面を上から順にスクリーンショットで撮っていく。 証拠は残す。返事はしない。 撮り終えて、スマホを裏返した。 これでいい。 これは、あの人たちの問題で、澪の問題ではないのだから。*
ポストを荒らしていたのは、小柄な女性。 お腹が膨らんでいるように見えた。 管理会社の言葉が、一晩中頭の中を回っていた。 やっぱり、花音? いや、まだ確証はない。防犯カメラの映像を見せてもらったわけではないのだ。 もしかしたら、別の人物かもしれない。確かな証拠がないのに、花音を責めても仕方がない。 相変わらず、会社にも怪文書が毎日のように送られてくる。 しかし、その内容は花音しか知らないものだった。「朝倉澪は大学受験に失敗した落ちこぼれだ」「朝倉澪は男運がなく、いつも振られている」 小学生じみた内容なのだが、これは花音しか知らない。 大学受験に関しても、失敗したというより、本当に行きたかった大学に学力が及ばず、泣く泣く志望校のランクを下げたのだ。下げた先の大学には合格できたが、本来行きたかった大学ではなかった。その意味では、失敗したと言える。 それでもランクの高い大学だったので、同級生からは羨望の眼差しを向けられた。けれど花音には、本当に行きたかった大学のことも、志望を変えた理由も伝えていた。 親友だと思っていたからだ。 合格発表の日、澪は花音にだけ電話をかけた。 合格したのに澪が泣いている理由を、花音だけは笑わずに聞いてくれた。「澪はすごいよ」と言ってくれた花音の声を、今でも覚えている。 その電話の内容が、いま、コピー用紙に印刷されて会社に届いている。 それに、男運がないことについても同様だ。 今まで付き合った人からは、ことごとく別れを切り出されている。人数は少ないが、確かな事実だった。しかも、最後に付き合った直哉も、最悪の形で澪に別れを切り出したのだ。 やっぱり、花音か。 それにしても、なぜ今さらこんなことをするのかがわからない。 澪からすべてを奪ったのに、まだ足りないというのだろうか。 そういえば、花音は今、妊娠してどれくらいなのだろうか。 澪は指を折った。
グロウセオリーに、怪文書が届くようになった。 最初は一通だった。次の日は二通。その次の日には、朝の郵便の束に紛れて三通あった。 それはほとんど、澪に対するものだった。「朝倉澪は男を弄んでいる」「朝倉澪は仕事ができない」「朝倉澪は美人じゃないくせに、自分がきれいだと思っている」「朝倉澪は二股をかけている」「朝倉澪は昔の恋人とよりを戻したいと思っている」 まるで小学生並みの内容だった。 それなのに、同じような紙を何十枚も見せられていると、少しずつ気持ちが削られていく。 またもや澪は人事から呼び出された。「朝倉さん。また、これ……」 会社に怪文書が届くたびに、澪はその内容を人事から見せられる。内容がくだらないだけに、人事も困り果てているようだ。「申し訳ありません。ご迷惑をおかけして……」 人事担当者は、顔の前で両手を振った。「いえいえ。朝倉さんが謝ることではないですよ。きちんと仕事もされていますし、ここだけの話、上司からの信頼も厚いですし」 人事担当者はそこで言葉を切り、「ただ」と続けた。「これだけの怪文書を、飽きることなく毎日のように送りつけてくるのですから、朝倉さんに恨みがある人物かもしれません。ご自身の身を守るよう、十分に気をつけてください」「そうですね……。ありがとうございます」 澪は人事部をあとにしながら、一体誰がやっているのかと考えた。「まさか……」 頭に浮かんだのは、ロビーで警備員に連れていかれた直哉の顔だった。 けれど、あの人は自分の手を汚すような真似はしない。汚れ役はいつも誰かに押しつけてきた人だ。 では、押しつけられる相手は。 そこまで考えて、澪は思考を止めた。 しかし、これほどくだらないことをするだろうか。
澪が受付に向かうと、直哉は腕を組み、右手の人差し指を腕の上でトントンと叩いていた。眉間に深いしわが寄っている。 しかし、澪の姿を見るとすぐに、組んでいた腕を解き、笑顔を見せた。「澪!」 直哉が澪のもとへ走り寄ってくる姿を、澪は冷めた目で見ていた。 直哉が近づいてくるにつれて、細かいところが目についた。ワイシャツの襟が黄ばんでいる。顎には剃り残しの髭。革靴のつま先には、白い粉のような汚れがこびりついていた。 五年付き合って、こんな身なりの直哉を見たことは一度もなかった。 どうして今さらこんなことをするのだろうか。 付き合っていたころは、澪が遅れていくと、常に機嫌が悪かった。こんなふうに「会いたかった」と言わんばかりの表情を向けられたことはない。 それなのに、今はどうだ。 まるで、長い間会えなかった恋人に会えて、うれしいと言っているかのようだった。「悪い、仕事中に」「用件は、なに?」 澪は立ち止まり、直哉から一定の距離をとった。「澪、ごめん」 直哉はその場で頭を下げた。「俺、どうかしてた。花音と結婚したのは間違いだった」 ロビーのソファで順番を待っていた来客が、なにごとかとこちらを見た。エレベーターホールから出てきた社員が、足を止める。 直哉は、周囲の視線にまるで気づいていない。花音との結婚が間違いかどうかなんて、澪には関係ない。 澪はただ黙って、目を細めて直哉を睨みつけた。「花音とは別れるよ。離婚届を花音に渡した。だから、俺とやり直そう。なにもかも、間違いだったんだ」 直哉は眉を下げ、うっとりとした顔を澪に向けてきた。 まるで澪のことが愛おしくて仕方がないかのような表情を見て、澪は吐き気がした。 直哉は、自分がしたことを、もう、忘れたのだろうか。 澪という婚約者がいながら、浮気をした。そして、子どもまでもうけたのだ。 「責任を取るから澪と別れてほしい」と言ってきたのは、この人ではなか